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世界の海援隊–2018年9月

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2018年9月5日更新

【提言】

「尊敬すべき偉人達」


ネパール・ムスタンの試験農場でチューリップの栽培状況を見る近藤さん
(2001年10月18日 読売新聞)

わが国にも、勲章や褒章制度があり、毎年多くの方々が受章している。また、昭和52年より国民栄誉賞が創設されているが、その目的は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」となっている。その対象は、「内閣総理大臣が本表彰の目的に照らして表彰することを適当と認めるもの」であり、かなり幅広い解釈が可能である。また公開されている授与基準の他に、「これまで功績を積み重ねてきた上に、さらに歴史を塗り替える、突き抜けるような功績をあげた」という「暗黙の了解」を満たしていることも必要だという。(Wikipediaを参照)

勲章の受章者を見ると、主政治家や公務員だったものが多い。政治家や公務員は、確かに日本国家のために働いているが、税金から報酬が支払われている。よって、勲章が彼らに集中しているのは、少し違和感がある。国民栄誉賞の受賞者は、スポーツ界や芸能界で活躍した方々が多い。ただ、本人の努力は勿論のこと、才能に恵まれて、その結果、名声が大きくなり、それなりに報酬も、一般国民とははるかに隔たった大きなものとなっている者が多い。ただ、彼らのスポーツや芸能活動における成果は、確かに記録的なものであるが、個人的なものであり、果たして歴史を塗り替えるほどと言えるかは疑問である。

一方、勲章や褒章に関係なく、自らの意思で日本国はおろか世界中で社会のために尽くす日本人達も多くいる。その中の一人が故近藤亨さんだ。彼は、1921年生で、新潟大学農学部助教授から、新潟県園芸試験場の研究員となり、1976年にJICA から植樹栽培専門家としてネパールに派遣され、ブドウの栽培などに成功した。残念ながら、2016年にその生涯を閉じた。

近藤さんは、1990年に70歳でJICAを辞めたが、その翌年1991年、私財を売り払って資金を作り、単身でネパールのムスタンに移住している。同年にネパール・ムスタン地域開発協力会 (MDSA)を設立して、野菜、りんご、チューリップなどの農作物の栽培、乳牛の飼育、食用魚の養殖等に成功し、農作業の指導や、小中学校や病院などを建設し、ネパールの秘境で地元の人たちのために活躍した。特に、1998年10月には、標高2750mのネパール・ムスタン・ティニ村で世界最高地の稲作に成功し、ネパール各方面より多大なる賞讃を集めた。かつて一度も耕したことのない荒涼たる台地を開墾し、日本古来の伝統的農法を応用しながら、極貧にあえぐ現地農民を相手に、農産物の技術指導に取り組む毎日を送ったのである。その間、支援の輪は東京や新潟など日本全国に広がり、MDSAは64支部、約1500人の会員を抱えるまでになった。

ネパール・ムスタン・ティニ村は、年間降雨量わずか100―150ミリという極端な乾燥地帯である。平均風速15メートル以上で、驚くほど厳しい自然環境のようだ。ネパール政府や各国ボランティア団体からも半ば見捨てられたようなこの村で、近藤さんが水稲栽培を本格的に計画したのは、1994年である。普通の暮らしぶりの農家でさえ、白いご飯が食べられるのは、冠婚葬祭時か、せいぜい年に1、2回で。村人たちはソバガキの一種を常食としながら細々と暮らしていた。

「貧しいムスタンの子どもたちに、腹いっぱい白いご飯を食べさせてやりたい」という思いに近藤さんはかられた。だが、当時すでにネパール在住20年近い大ベテランの近藤さんにとっても、これは大きな挑戦だった。ネパール政府社会福祉省に掛け合い、国有地200ヘクタールを借り受けると、早速、日本から高冷地向け水稲栽培の品種を取り寄せた。稲作は熱帯か温帯で行われるのが常識で、日本では標高約1000メートルが高地の限界。世界でも、中国雲南省山岳地帯で日中共同研究により標高2450メートルで出来たのが極限だった。

近藤さんはまず、ムスタンのティニ村で試作に取り組んだ。試験用の水田は、先ず、水を引き込むことが大作業であったが、近藤さんはただ一人でヒマラヤの雪解け水の引水工事を実行した。最初は、ネパール国民も近藤さんの作業に懐疑的で近寄らなかった。稲作も、最先端のバイオテクノロジーによるものでなく、東北の冷害地帯で行われてきた「深水栽培」と、静岡の「石垣いちご」の技術を応用したが、これは日本の伝統的農業技術の組み合わせがヒントになった。地面にビニールを敷き、水田の周囲を石垣で囲い、石の一つ一つに太陽熱を蓄えて田んぼの温度をできるだけ保ち、強風や冷気から稲を守ることにした。

苦節4年目の1998年、ついに黄金色の稲穂が実った。そして2000年には、標高3600メートルのガミ村の農場でも、10アール当たり710キロ・グラムの大豊作となった。その後、水田を拡大し、一般農家での栽培を始めた。

近藤さんは、日本とネパールで10以上の賞を与えられたが、その中でも2013年のネパール最高栄誉1等勲章は、日本の国民栄誉賞以上のものと考えられる。本当に尊敬すべき偉人である。

尾畠春夫さんも高潔な偉人である。身長161cm、体重57kg、年78才、真っ黒に日焼けした顔。彼は、 山口県周防大島町で行方不明となった2才の男児、藤本理稀(よしき)ちゃんを発見した男性である。

「親父は下駄を作って売る職人でした。明治生まれだから厳しい人でね。よく殴られました。食うのも厳しい時代だった。小学生のときに母親が亡くなりましてね。それから農家に丁稚奉公に出されました。育ち盛りにいつも腹を空かせて、つらい思いをしましたよ。」 戦後の貧しい時代に育った。杵築市の八坂中学校に在籍していたが、ほとんど学校には通えなかったという。

「15才で魚市場に修業に出ました。だから、高校なんていってやしません。10年ぐらい大分市や兵庫の神戸市の魚市場で働きました。魚屋じゃないですよ、“フィッシュセンター”です(笑い)。20代の半ばで、東京にも出稼ぎに行きましたよ。とび職で3年間。自分の店を開く資金と、結婚資金を貯めるためにね。とび職の経験は、今のボランティアの現場でも生きています。」

28才のとき、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。近所の住民が語る。「春さん(尾畠さんの愛称)が捌く刺身は絶品でした。お祝い事があると、春さんに注文して。年末には店の前に長い行列ができていました。」その頃、鮮魚店の前を通学していた女学生に一目惚れして結婚。一男一女をもうけた。「孫は5人です。21才の孫娘がいちばん上。下はみんな男の子で、下が小学1年生です。孫は大分県内に住んでいるから、時々会っていますよ。」

転機は65才の誕生日だった。繁盛していた「魚春」を突然、畳んだ。「閉店することは、奥さん以外には当日まで内緒でした。誕生日の朝、店頭に『今まで長い間、ご愛顧ありがとうございました』と書いた紙を貼り出したんです。お客さんからすれば、仰天したようです。どうしてかって? 私は15才で働き始めたときから、働くのは65才までにしよう、と決めていたんです。本当に、それだけ。」

お得意さんのところへ閉店の挨拶に回ると、意外な反応が返ってきた。「自治体の有料ゴミ袋を手土産に持って行ったんですが、どこも受け取ってくれない。それどころか『これまでわが家は、ずっと魚春さんの魚しか食べてこなかった。これからは一体どうしたらいいんですか。』と詰め寄られた。もちろん最後はゴミ袋も受け取ってくれたんですが、そこまで愛されていたことに気づいて、本当に嬉しかった。」その恩を、直接は無理でも社会を通じて恩返ししたい、との思いがボランティアを始めるきっかけになった。

しかし、別の近所の住民はこう語る。「春さんは引退してからボランティアを始めたんじゃありません。魚春の頃から、近所にスズメバチの巣ができると率先して取り除き、通学路にマムシが出ると聞くと、“子供たちが危ない”と毎年、草を刈っていた。根っからの“善意の人”なんです。」

40才頃から趣味で山登りを始めた。58才で北アルプス55山を単独縦走。地元の由布岳では、「何度も登っている山へ恩返しがしたい」と登山道整備のボランティアを始めた。週に2回、40kgの道具を背負い、崩れかかった路肩を修理し、案内板を設置した。材料は、魚春の魚が入っていた箱を解体して、由布岳の遊歩道にあるベンチの修理に使っていた。(2014年、環境省から地域環境美化功労者として表彰されている。)66才のとき、「生まれた日本を歩き、体力を試したかった」と考えていた尾畠さんは、徒歩で日本を縦断。無人駅やテントに泊まり、九州最南端からたった3か月で北海道の稚内市にたどり着いた。

全国各地へとボランティアに出向くようになったきっかけは2004年、64才のときに起きた新潟県中越地震だ。東日本大震災でも現場へ急行。大分県と宮城県南三陸町を行き来し、計500日という長期にわたり支援した。とくに津波で流された写真や思い出の品などを収集、洗浄する「思い出探し隊」隊長として尽力した。

豊富なのが行方不明者の捜索経験だ。今回の理稀ちゃんのケースのように、遭難者の特性を見極めて、居場所を絞り込んでいく。長年の整備活動で山を知り尽くしているため、地元・大分では要請を受け、警察の部隊を率いて捜索に当たったこともあるという。「野菜は虫食いのある自然なものしか食べません。庭で作ったものとか。あとは、体にいいというから、パックで甘酒を買って飲んでいます。」と、尾畠さんは語る。(上記の大半は、女性セブン2018年9月6日号より。筆者が少々アレンジ。)

彼らはなんと素晴らしい日本人であろうか。先ず心が澄み切って素晴らしい。行為も、全て他益に向けられている。生きておられる限り、地球上に幸を齎そうと努力され、実際に成果を出されている。仏教でいう菩薩道を実践しておられる尊い方々である。このような方々に対する賞は何が相応しいであろうか。

日本には、古い時代にも多くの偉人がいた。平安時代に大和国葛城に生まれた源信の幼名は千菊丸である。非常に利発で比叡山に登って良源僧正について勉学し、師から源信の名が与えられたのである。源信の才智は評判高く、十五歳にして時の帝・村上天皇の御前で特別に「称讃浄土経」を講じたほどである。間もなく、天皇はじめ公卿殿上人、感嘆しない者はなく、数々の褒美の品と、僧都の位とが授けられた。源信は、早速この喜びを大和にひとり暮しの母に知らせようと、使いの者に褒美の品を持たせた。

しかし、母からは、褒美の品は返されてきて、和歌が添えてあった。「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」 母の厳しい訓誡を受けた源信は、僧都の位を返上し、更に精進を重ね、念仏三昧の日を送った。その間に彼が著したのが「往生要集」である。これが大乗仏教、浄土宗系の原典の一つとなった。三十数年後、母は念仏を勧める源信の膝を枕に、安らかな往生をとげたという。

今から千年前でも、わが国には源信とその母のような偉人も輩出している。その精神と自益よりも他益を優先した善行を実践しているのが近藤さん、小畠さん、その他多くの陰徳者達の日本人である。なんと素晴らしいことであろうか。(物部一二三)
 

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(第23回)
「オプション契約の内容」

前に、オプション契約の発生した背景を説明しましたが、この契約は、最終的に目的とする契約とは完全に区分されます。例えば、売買契約の成立を目的としてオプション契約が締結される場合、このオプション契約は目的とする売買契約の付随契約ではなく、売買契約とは完全に独立した別契約として取り扱われます。ライセンス契約などを最終目的とする場合にも同様です。

通常のオプション契約では、下記の内容が取り決められます。

①オプションの対象

これは、目的とする契約のことです。オプションを付与する者(optionor)が、どのような契約の成立のために申込みをしているかが、明確であることが一番肝心です。またその申込みの内容は、目的とする契約の要素を全部包含するものでなければなりません。単に、「車を買うための契約」程度の申込みであってはならないことは前に述べたとおりです。

②オプション料

オプションを付与された者(optionee)は、そのための対価を支払うことを原則とします。しかし英米法圏外の契約法上、どうしてもオプション料(option fee)を支払わねばならないということはありません。また、英米法圏でも、対価に関する法理論だけでなく、無償でも強制力のある(enforceable) 契約を成立させる方法もあります(例えば捺印証書にする)。但し、通常は金銭でオプション料を支払います。

③オプション期間

これは、先に述べたオプショニーの、目的とする契約を成立させるか否かの選択権を行使する(exercise)期限を言います。前に述べた確定的申込みの撤回期限(法定)とは異なりますので、何ヵ月でも何年間でも構いません。しかしながら、オプショナーとしては、この期間が長いと、オプショニー以外の者との取引機会をその間失うことになりますので、それに見合うだけのオプション料を受領しなければなりません。すなわち、オプション期間が長いと、オプション料は大きくなるのが一般的です。

3)第一拒否権との相違

オプションに類似したものに、第1拒否権 (right of first refusal)があります。これは、ある者が、将来誰かと契約をする場合、特定の者に対して、第一に申込みを行って、その特定の者にYes か No を言わせる権利のことです。オプションと非常によく似ていますが、全然別のものです。と言うのは、オプションでは、オプションの対象たる将来の目的とする契約内容が、申込みの充実ということで明確に固定されていますが、第一拒否権では、申込みそのものすら、その時点で存在しておらず、将来の目的とする契約内容は曖昧なものです。申込みが絶対に将来的にあるとの保障もありません。従って、オプション期間のようなものもありませんし、オプション料のようなものもありません。

その結果、オプション契約にオプショナーが違反したような場合には、オプショニーは、差止め請求(injunction)などもできますが、第一拒否権付与契約に違反したような場合には、差止め請求などはできず、損害賠償請求にとどめるべしというのが法理論です。

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「パートナーシップとは」
Q
外国の取引先にパートナーシップなるものが存在するようですが、これらは、わが国のLLP(有限責任事業組合)と同じでしょうか。違いがあるとすれば、どのような点でしょうか。説明をお願いします。
A
1)基本知識
パートナーシップは、収益を目的として、複数の者が契約によって形作る企業体です。パートナーシップは、英米法圏を中心として存在し、法定もされています。わが国も、英国のリミテッド・ライアビリティ・パートナーシップ (Limited Liability Partnership; LLP)にならって、2005年より施行された「有限責任事業組合契約に関する法律」の下でLLPの設立化可能となっています。わが国のLLPは、企業組織ですが、法人格を有しない組合となっています。(わが国には、多くの組合が存在するが、法人格を有する組合と、法人格を有しない組合とがある。)パートナーシップは、英米法圏で、半法人的な扱いがなされていますが、非常に多く存在します。その存在意義は、節税対策にあるようです。パートナーシップの構成員(パートナー)は、納税についてパートナーシップから発生する損益と他の独自の損益とを合算することができますので、他の事業で収益が大きくてそのままだと納税額が大きくなる場合、パートナーシップから(一時的)損失が発生すると、この二つを相殺することができることが一般的となっています。パートナーシップを構成していても、納税は、各構成員が個々に行わねばならなりませんので、この点を見る限り、パートナーシップは法人とは言えないのです。しかし、パートナーシップは、その名義で財産を所有でき、契約や商行為が可能であり、訴訟の原告や被告になれることを見ると、法人と同様なのです。2)パートナーシップの種類
なお、パートナーシップは国毎に法律があって、その法律によって規律されています。また、国々の制度により、パートナーシップでは、特定の事業に参加できないこともありますので、注意を要します。以下で、特に英米法圏のパートナーシップについての一般論を簡単に説明します。

(1)ゼネラル・パートナーシップ
英米法圏のパートナーシップには、ゼネラル・パートナーシップとリミテッド・パートナーシップがあります。ゼネラル・パートナーシップは、パートナー全員が、対外的債務について無限責任を負うゼネラル・パートナーで構成されています。従って、ゼネラル・パートナーになると、前記の通り節税が計算通りに旨くゆけばよいのですが、また、リスクを免れればよいのですが、そうでない場合には非常に危険です。

(2)リミテッド・パートナーシップ
a)ゼネラル・パートナー+リミテッド・パートナー
リミテッド・パートナーシップは、ゼネラル・パートナーとリミテッド・パートナーとによって構成されたパートナーシップです。ゼネラル・パートナーが無限責任を負うことは前記の通りですが、リミテッド・パートナーは、有限責任で、通常、その責任は出資額を限度とします。ただ、リミテッド・パートナーは、パートナーシップの経営に参加できません。
b)リミテッド・パートナーのみ
リミテッド・パートナーのみで構成されるパートナーシップです。出資者たるパートナーが出資額の範囲内で責任を負うだけです。パートナーシップ契約で、組合員の出資額の多寡にとらわれることなく、利益の配分や権限などを自由に決めてよいことになっています。組合レベルでは法人税は課されませんが、利益配分があった場合は、その出資者に直接課税されることになります。わが国のLLPは、これに一致します。

3)パートナーシップの運営
パートナーシップは、パートナー間の契約によって運営されます。これをパートナーシップ契約と言っています。パートナーシップ契約については法定されており、必要的記載事項があります。グローバルには、その契約書は定款の形を取り、Articles of Partnershipと呼ばれています。その契約により、各パートナーは、割与えられた拠出金を払い込み、定められた利益を受け取ることができます。拠出された資金や収入は、共同してプールされ、会社と同様に会計帳簿が作成されて管理されます。納税は、各パートナーが個々に行うことは前に述べたとおりですが、パータナーシップの損益を正しく示す計算書類に裏打ちされた各人の損益を証明する必要があります。(IBDコンサルタント)

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